信仰の第二の役割についての考察
既に発見された法則や、理解を超えた法則の存在を新発見するという業績は、単に知的労働の素晴らしい成果であるだけではない。寧ろそれらの法則そのものが、至高なる叡智 (神) に造られて制定されたものであることを明証している。
計算し尽くされた法則に基づいて存在している万物が、よりによって偶然の産物にすぎず、無知から生じた産物だなどと宣うことができるのは、ひとえに自分自身が無知蒙昧にして無分別な者にしかできないことだ。
この世界の法則を知ることは、神の摂理を知り神に近づく行為である。物理学の法則が偶然の産物のように捉えられるならば戒めなければならない。それは人智を超えた摂理に釘せられた計算し尽くされた理であるからである。
しかし人智を超えた理であるが故に、人間の知力の及ぶ領域で測れるものではないということは注意する必要がある。まだ見つかっていない諸法則、解明のできない法則の前では、これまでに見つけた法則など無に等しいことを認めざるを得ない。これら人間の感じ取れる世界を超越している理や概念というものは、愚かにも自らの科学でこの世の全てを記述できるという思い上がりを戒める効果がある。超越的存在、至高なる叡智 (神) を信じることは、人間に固有のこういった思い上がりを醒まし、人間の科学の健全性を維持することが期待される。
即ち、「(超越的存在の) 信仰には、万物を記述できるという思い上がりを戒め、科学の科学性を維持するという意味がある。」