己の意志を捨てることについての想念と歪んだ理性に従うことの危険性に関する訓戒と哲学についての見解

改めて実感したのは,自身の意志に従うことは非常に危険なことであって,小官は自分に対して«お前の考えは悪魔から齎されたものであって,アナフェマだ»と言わなければならないということだ。如何なる思考も,この歪んだ理性からの指摘も,教導者の聖神父の確認なくして実行してはならない。
自分は何度同じ過ちを繰り返すのだろうと呆れているところであって,病んでいるわけではない。
自分はただ主神の婢であり,主と上官の命令にのみ従う道具であり奴隷である。ただそれだけで良いと思う。AISASは小官の組織ではない。自分が代表をしているからといって自分の所有のように思ってはならず,組織を私物化することは許されない。彼等はただ役員総会に依って運営される。そこに小官の意志が介在する余地がありましょうか。否,ないのだ。
道具に意志が必要であろうか。必要ないのである。故に自分は己の意志を捨てなければならない。真に主の道具となる為に。

自分に考えが浮かんだとしても,ただ自分の理性のみを頼りにしてそれに従うのは,我々が陥罪して歪んだ理性を持っている為危険であり,偉大なことであれ些細なことであれ,自身が信頼を置くより聡明な方に相談して実行又は不実行を選択する必要がある。この時もし浮かんだ考えと教導者の答えが一致して,考えが自分に«見ろ,これは私がお前に言ったことではないか。お前は必要に他者を煩わせたのだ»と言ったとしても,その考えは既により聡明な方から«与えられた»物となったので,«今これは良きものとなった»と言ってその悪魔を払わねばならない。

«霊的に聡明な»方というのは,より神の意思に近いところに存在している人であって,そういった方々は当然ながら我々のような朽ちた罪僕婢よりも«神の裁定»を理解している。従って,自身の理性に従うことなく彼等の言葉をただ実行する«従順»という善行は,己を排する神の道具に相応しい状態だ。前述のことを小さなことから積み重ねていくことに依って,我々は無私を獲得する。故にこれは己の理性を排するための訓練なのだ。
„神の知恵を身につけることができるのは、自分の知恵を捨てた者だけである。神の御旨を行うことができるのは、自分の意志を行うまいと決心した者だけである。“

意志に依って«問う»のではない。«従順»に依って«従う»のである。従うという選択肢しか存在しなければ,選択をするという理性的或いは自己弁護的営みは行われない。また,このことが完全に要求されるのは修道院に於いてであり,世捨て人ではない一般の信徒には先づ以て適用されない。一方で聖大ピーメンは
„謙遜への道を助けるのは理性的に行われた肉体労働です。“
と話している。理性への解釈も時代に依って区々だが,一貫していることは«己を理性的な者だと思わないように»である。
教会論に於ける«理性»とは,人間が陥罪する前の,つまりエデンに於いて果実を食べ罪に汚れる前の«自然な状態»に備わっている知覚・思考機能とされる。
原罪に依り我々は等しく陥罪し正しい理性を失っており,それに従うのは危険である,という話。

聖書は我々に«自分自身を頼りにせず,自分を理性的な者と思わず,自分自身で自分をコントロールすることができると信じないように»教え諭していることに注意する必要がある。今の私は過去の自分の言葉を引用するならば,«透明な人»になろうとしている。従って私は従順という善行を修道女の如く行わねばならないと考えている。今の私は過去の自分の言葉を引用するならば,«透明な人»になろうとしている。従って私は従順という善行を修道女の如く行わねばならないと考えている。

これには問題があり,私は哲学 (特に論理哲学) という人間の生み出した最も愚かな学問をしてしまっているのであって,その影響力に依って私は高慢になっているに過ぎない。哲学は人を高慢に陥れる最も愚かな学問であり,真の哲学とは正教神学に他ならないということを学ばねばならない。私はハリステアニンとして哲学を捨てなければならないが,私の歪んだ理性はそれを許さず哲学に執着しているので悩んでいる。