宗教や分派を作る,或いは悪魔的な力を信仰するなどの死罪を犯すことについての訓戒

異端・岐教(分派を作ったり分派に加わったりすること)・離教等が死罪(犯すと霊が永遠の死で殺されてしまう罪)であるということを知らないらしい。故にキリスト者が新宗教や分派を建てるのは死罪であるということを,AISAS職員やCSD職員も認識すべき。
„欲望を実行に移している間は、地獄に相応しい。“
凡ゆる罪は,実際に行動に移すと地獄に落とされるからである。そしてこのような人間は例え悔い改めたいと思っても,聖師父が言っているように,聖なる人々の助けを得ないのならば,彼一人では欲望を克服できない。自分に注意しないで自分を守らない人は,簡単にこの道(中庸・王道)から逸れて,右に行ったり左に行ったりしてしまう。詰まり過分または不過分に陥ってしまい,己の衷に病が生じてしまい,これが悪を作り上げるのである。

ドミトリー・D・トカチェンコ博士が魔法学に熱心なのも危険なことで,本来であれば自分はこれを止めるべき立場にある。何故なら魔術というのは,悪魔的力であって神に真っ向から反するものだからである。CSDはAISASのハリステアニンの集いから誕生したものであって,正教会の聖伝に反することをしてはならないのは大前提としてある。

CSDの件も然うだけど,凡ゆるカルトについて,何故人は自身の歪んだ本性・邪な意思を崇高なものだと自称して,宗教や分派を作ってしまうのか。聖書が教えていることは,«自分を理性的なものだと思わず»,«この世は一時の流刑地であり来るべき来世の為の用意をする場である»ということだが,従って,この世的な思い煩いや災難を克服する為だけの空しい教えは,決して崇高などではない。この世という一時の流刑地を如何に«快適に»,且つ«欲望のままに»生きれるか,を追求するようなものは,等しくカルトと言っても良い。この世は永遠ではないし,来世へ持っていけるもの,即ち我々自身の持ち物は霊だけだ。その他は全て神の恵みである。与えられる苦難や災難すらも,全ては神の許可に依って起こる。故に忍耐しなければならない。ここで背神すれば,元からの罪人よりも捨て置かれることになるだろう。

我々は決して,「これそれをすれば救われる。」とは言わない。「これそれをしなければあなたの人生を棒に振ってしまうことになるかもしれない。」と言う。救いは主・神に依る。故に我々に悟れるものではなく,或る善行を形だけでも行えば救われる,という程神の裁定は簡単ではないからだ。
„虚栄心から、または自分は善行をしているのだと思って斎する者は、非理性的に斎をしている。ゆえに自分は何か偉大な者だと思い、まもなく自分の兄弟を非難し始める。彼は一つの石を置いただけでなく、二つの石を取ったことになる。“