哲学の破綻から導かれる信仰の論理草案
全能者が存在したとする。全能者は全能であるので,«誰にも開けられない箱»を作ることができる。然しその箱が本当に«誰にも»開けられないのならば,全能者にすら開けられず,故に全能者は全能ではない。同様に,その箱が開けられるのならば,箱の創造に失敗しており,全能者は全能ではない。
では全能者が論理の外に居て,箱を開けられる可能性と開けられない可能性を共存させられるとする。するとこの箱は開くが開かない。然しこれは«全能者が論理の外にいる»という論理を前提に成り立っている。つまり論理を使って論理の外を語る矛盾が生じる。
ウィトゲンシュタインの„答えが言い表し得ないならば、問いを言い表すことをできない。謎は存在しない。問いが立てられ得るのならば、答えもまた与えられる得る。“からこのパラドックスを«破綻した問い»と呼んでいる。これはウィトゲンシュタインの«語り得ぬもの»とは別枠のものである。
この破綻した問いに対して人間が取れる選択は«それが正しいと信じること»或いは«解なしで命題は成立しないと卓をひっくり返すこと»のどちらかになる。この論理の限界を認識した上でのどちらかの積極的な決断こそが,«信仰»の原点であると考えられる。
では«卓をひっくり返すこと»もまた一種の信仰ではないか,という疑問が生じる。論理的に成立しないものは存在しないという信念もまた,証明不可能な形而上学的な立場ではないか。つまり,信仰と無神論は対称的な二つの信仰であり,それならば人間は何らかの«信仰»なしに生きられないことになる。
«全能者が論理の外に居て,箱を開けられる可能性と開けられない可能性を共存させられる»は語り得ぬものである。語り得ぬものについて,我々は沈黙しなければならない。教会の教え神の存在論もまた語り得ぬものである。それは«問い»ではない。
語り得ぬものを無意味と見做さず,寧ろ言語で捉えられない重要なものの存在示唆として見做すべきである。従って,全ての人間は何らかの信仰を持ち,これは人間存在の本質である。故に信仰とは合理と理性の行き着く先であり,逃避ではなく或いは放棄ではない。
«全能者が論理の外に居て,箱を開けられる可能性と開けられない可能性を共存させられる»の解決から導かれる,AかつAでないを認めるならば,凡ゆる質問に答えができてしまう。全てを説明できる理論は,何も説明していないのと同義だが,語り得ぬものを語ることはできない。故にこれは信仰である。