悪敵に関する想念
目に視える万物は全て神の摂理の内にあり,我々の益になる様に神に仕えているというのに,我々はその中に悪や敵を見出してしまう。たとい自らを誹謗する者や無神論者であっても,彼等は我々に霊的戦いを思い起こさせる役割を担っているのであり,それは明確に試練であり我々の益になることなのである。
己を誹る者,害する者,神を知らない者,様々な人が存在する。然し誰も彼も我々にとって有益である。というのも,神の救いは apokatastasis なのであって,彼等も含めた万物が義しき容に戻ることを意味し,故に彼等の為に祈るという敬虔な行動を思い起こさせる為に彼等は我々に仕え,我々の忍耐力を強化している。
悪魔は対象化されがちだが,正教会では悪魔は実体を持たない,詰まり無形の存在であり肉体を持たない。人間の自由意志そのものが,神に背くありかたを悪魔の唆しと見るだけである。抑々我々の自由意志が加担しなければ,無感覚の種は撒かれず,悪魔の唆しは生じ得ない。故に«敵»は存在するのではなく,我々が«生み出して»いる。