言葉に本質的な善悪があるかという命題
ネガティヴな単語というのは本質的に存在するかという問いを考えているが,結論としては我々の文化的コンテクストによって正負の価値を与えられているだけであり,言葉は全て本質的には中立であるとなった。
例えば«逃げる»という言葉にしても,我々は屡々ネガティヴに捉えてしまうが,逃げるという行為自体は取り得る選択のひとつでしかない訳であり,これは寧ろ合理的に働く場合の方が多く,状況によっては戦略的撤退や損切りという言葉にも置換できる。«死»についても同様に,生命の一生の一点に過ぎない。
詰まり我々は本来中立である言葉に対して,文化的なコンテクストからネガティヴ或いはポジティヴな価値を付与しており,結局はネガティヴな言葉があるのではなく,ネガティヴな解釈の習慣が存在しているということになる。正教文化では,死は復活の為の準備点であり,明確に正の価値を持つように。
言葉が本来記述だけを行うものであり,意味にはコンテクストが含まれない単純化されたものであるならば,それは«本来の言葉»である。プログラミングなどではコンテクストは考慮されず,言葉の意味は全て記述によってのみ行われるが,人間の文化が絡むとコンテクストを考慮する必要が出てくる。
ここで少し疑問に思ったのが,神的存在がゲームや何かに登場したとして,彼等は人間の文化に依存しない独立存在として在る筈なのに,彼等の言葉は余りにも人間の文化コンテクスト依存だと感じる場合,詰まり凡ゆるネガティヴな解釈を語に含ませている場合,それは人間的な行いで,絶対的な存在者的ではない。
神やそれに近しい神的存在が我々の言葉を使う時,果たして人間の文化コンテクストに則した意味で言葉を用いるだろうか?然し我々に伝わるようにする為にはコンテクストを考慮する必要があり,«絶対的な存在者»であるならばこのことを考慮する合理性はある。
寧ろ私がここで言いたいのは,我等が主は人の言葉を話す必要はないのにも拘らず,権能での解決よりも人間に理解されることを選択してコンテクストを受容し,主・神イイスス・ハリストスの籍身後に神御自身が人となられたことで,我々と対等になられたが,ここで死を神の視座に近い中立的な価値として,人間の文化コンテクストから引き剥がして,人間の言葉で再定義を行なったというのは,どんな奇跡よりも神性の顕れだと感じている。我々無知なる存在には神のような全知はなく,愚かにも自身の文化的な価値評価で言葉を定義してしまうが,それを我々の言葉で再定義するのは意味の支配である。
詰まりこれは奇跡的な体験をしても感化されない陥罪仕切った我々でも,その意味を即座に理解し,死を善でも悪でもなく,罰でも報酬でもなく,人間の恐れの根を無効化する評価構造の書き換えという行為であり,どんな奇跡よりも«神的な»行為である。
記述的な言葉は神の視座に近く,原初の形である。