哲学的愚行から導かれる信仰の論理草案
注意事項
本草案は『哲学の自己限界から導かれる信仰の論理』の改定前の名称であり,学際的視点を欠いた表題・論理構造を採っている為に,学術論文として纏める際に全面的に構造と名称が改定されたものである。この草案はその改定以前の原文であり,これは研究ノート・草案としての機能のみを果たし,学術研究の透明性及び連続性の明示の為に公開されるものであり,学術論文としての地位は一切ないことを宣言する。猶,改定され宗教哲学の学術論文として発表されたものについてはこちらを参照。
概要
本稿は,哲学が抱える古典的な問題である「全能のパラドックス」を通じて,論理の自己破綻が如何にして信仰の論理的必然性を導くかを考察する。正教神学的立場から哲学を「人間の生み出した最も愚かな学問」として再定義し,その愚かさこそが神学的真理への道しるべとなることを示すものである。
序論
正教会の神学及び聖伝に照らし合わせると,人間の哲学というものは理性の営みというよりは「理性の限界を暴く営み」である。ロシアの成聖者聖イグナティは言った。
「人間の哲学は体系が多く,互いに一致せず矛盾しあっていることからして,決定的な真実の知識を有していないことが明白である。精密科学では許されない身勝手な空想・虚構・荒唐無稽な大言壮語が,哲学では幅を利かせている。それでいて哲学は普通,自分自身に大変満足している。」
──『イグナティ・ブリャンチャニノフ著作集』210頁
イヌマエル・カントは『純粋理性批判』で伝統的な神の存在証明を全て論破したが,『実践理性批判』では道徳法則の究極的根拠として神を「要請」した。また,フリードリヒ・ニーチェは『悦ばしき知識』にて「神は死んだ」と宣言した瞬間からその亡霊に取り憑かれ,神なき世界で人間はどう生きるかを生涯問い続け,神への逆説的な固執を見せた。このように哲学は神学を否定しながらも,結局その否定の中で神を問わざるを得ない。故に私はここで哲学を,「人間の生み出した最も愚かな学問」であると再定義する。しかし本稿ではその哲学の愚かさ,破綻そのものが神学的命題を導くことを示す。
問題の所在
全能者が存在したとする。全能者は全能であるので,「誰にも開けられない箱」を作ることができる。しかしその箱が本当に「誰にも」開けられないのならば,全能者にすら開けられず,故に全能者は全能ではない。同様に,その箱が開けられるのならば,箱の創造に失敗しており,従って全能者は全能ではない。つまりどちらの可能性を取っても,全能者は全能ではないという矛盾が生じるのである。
では全能者が「論理の外」にいる(i.e. 論理の制約を受けない),箱を開けられる可能性(\(P\))と開けられない可能性 \(\lnot P\) を共存させられる(i.e., \(P \land \lnot P\) とする。するとこの箱は開き,同時に開かない。つまり,誰にも開けられない箱を作れる全能性且つその箱を開けられる全能性を同時に成立できる。この視点は古典的な「論理的に可能なことだけが可能なのが全能」という制約を超越する試みであるが,しかしこれは「全能者が論理の外にいる」という論理と,「共存させられる」という論理的可能性を前提に成り立っている。つまり論理を使って「論理の外」を語るという矛盾が生じる訳である。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは次の様に言った。
「答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない。"謎"は存在しない。問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる。」
──『論理哲学論考』(命題6.5)
このことから,このパラドックスは「答えが言い表しえない」ために「問い」を言い表すこともできない。このような問いをここでは「破綻した問い」と呼ぶ。これはウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」とは別枠のものである。
理論的分析
ここで示す「破綻した問い」とは,問いの形をしているが実は問いではないものを指している。ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」が「言語の枠を超えるもの」として位置付けられているのに対して,「破綻した問い」は論理構造の自己矛盾として位置付けられる。詰まり「破綻した問い」は言語の外部ではなく,論理構造の自己崩壊により成立しないという意味で異なる概念である。本稿が「最も愚かな学問」と称する哲学は,この種の問いを繰り返し生み出す謂わば「破綻の生産装置」である。しかしこの破綻こそが,神学的命題への通路となる。
考察
この「破綻した問い」に対して人間が選び得る道は,「それが正しいと信じること」或いは「解なしで命題は成立しないと卓をひっくり返すこと」の何れかになる。この論理の限界を認識した上でのどちらかの積極的な「決断」こそが,「信仰」の原点と考えられる。
では「卓をひっくり返すこと」もまた一種の信仰ではないか,という疑問が生じるのである。前述の様に,論理の限界を認識した上での積極的な決断,論理的に成立しないものは存在しないという信念もまた,証明不可能な形而上学的立場ではないかと考えられる。詰まり,信仰と無神論は対称的な二つの信仰であり,それならば人間は何らかの「信仰」なしに生きられないことになるのである。
両者は共に理性の限界,終着点での「選択」であり,「逃避」ではない。そして両者は共に形而上学的選択であり,何れも信仰的行為である。従って,「無神論」もまた「信仰」のひとつの形態であり,信仰は人間の理性が限界に達した時に必然的に発生する現象である。
このように哲学は自らの矛盾と限界の愚かさを通じてのみ,真理に近づけると考えられる。全能のパラドックスや過去の哲学研究から,哲学は神を証明できないことは明らかである。しかし哲学が神を証明できないということ自体が,神の存在の証明となる。何故ならば,神は理性の勝利によってではなく,このような理性の崩壊によって顕れるからである。
結論
前述の \(P \land \lnot P\) は語りえぬものである。ウィトゲンシュタインによれば,語り得ぬものについて我々は沈黙しなければならない。教会の教え,神の存在論もまた語りえぬものである。そしてそれは「問い」ではなく,その問いは「破綻した問い」に他ならない。
語りえぬものを無意味と見做さず,寧ろ言語で捉えられない重要なものの存在示唆として見做すべきである。従って,全ての人間は何らかの信仰を持ち,これは人間存在の本質である。故に信仰とは合理と理性の行き着く先であり,逃避ではなく或いは放棄ではない。
「全能者が論理の外にいて,箱を開けられる可能性と開けられない可能性を共存させられる」という視点から導かれる,\(P \land \lnot P\) を認めるならば,あらゆる質問に答えができてしまう。全てを説明できる理論は,何も説明していないのと同義だが,語りえぬものを語ることはできない。故にこれは信仰である。哲学の愚かさを自覚することは,信仰の出発点である。哲学は神を説明できないが,神を語りえぬことの理由を説明できるのである。従って哲学の最終的な使命は,沈黙の必然性を照らし出すことである。
関連議論
- 『哲学の自己限界から導かれる信仰の論理』 - 完成後の宗教哲学の学際研究論文
- 雑記:哲学の破綻から導かれる信仰の論理草案 - 本草案の着想段階の草案