隣人愛に関する考察

人に喜んでもらいたくて尽くし、何でも行い全ての言葉を聞くことは、その人への偏愛でしかない。人のご機嫌をとって悦ばせようとする者の愛は、フィリアやアガペーとは程遠いものであって、それは究極的には自己愛に溺れて他者を欺いているだけに過ぎない。「人を悦ばせている自分」というものに酔っている。自己愛に溺れている所為で、「誰かを欺いても悦ばせたい」という偽善と欺瞞に満ちた欲望を満たしたいのだ。偽証的知恵と邪な思慮で以て、その欲望も正当化している。
「偏愛」や「自己愛」に陥る事無く、優しく温かい隣人愛、フィリアを持つことはそう簡単なことではないと思う。主の御旨に従い福音の通りに生きていたとしても、陥罪した意志によって自己愛や偏愛に走ってしまう。自己愛に溺れることを危険だというのは、フィリアを以て他者を愛する為には、自己を愛さなければならない為だが、然し乍ら自分を愛そうと思って行ったことが、多くの人の場合、述べた様に自分を「悦ばせて騙しているだけ」に過ぎない「自己愛」によるものだからである。
他者を愛するとは全てを受け入れることではないし、他者を偽善と欺瞞に満ちた言葉と行いで悦ばせることではないし、誓いを立てて裏切らないことではない。
誓うことなく嘘も吐かない状態にあり、他人を邪険に扱うことなく奪いとらず仕返しもせず、寛容な心で隣人に優しくできる状態にあり、罵ってくる人を祝福し、憎んでくる人に善をなし、迫害してくる人のために祈れる状態にあるとき、人は己を愛し、また他者に対してもフィリアを以て愛せる状態にある。